東京高等裁判所 昭和61年(う)239号 判決
被告人 溝隈正則
〔抄 録〕
所論は、要するに、起訴状記載の公訴事実には、放火場所に「近接して駐車中の株式会社ビック(代表取締役小林久夫)所有にかかる普通貨物自動車を焼燬するおそれのある危険な状態を生じさせ、よって、公共の危険を生じさせた」とあるのに、原判決は、放火場所から「約一メートルに近接して駐車中の株式会社ビック(代表取締役小林久夫)所有にかかる普通貨物自動車及び付近の商店等に延焼するおそれのある危険な状態を発生させ、もって、公共の危険を生じさせた」と認定判示しているが、訴因中の「普通貨物自動車への延焼のおそれ」に加えて、訴因に記載のない「付近の商店等への延焼のおそれ」をも、被告人の放火行為によって生じた公共の危険の具体的内容として認定することは、原審における審理の経過にかんがみ被告人の防禦に実質的に支障を生じ、訴因変更の手続を踏まなければ許されないから、その手続を経ることなく前示のような訴因外の事実を認定した原判決には、刑訴法三七八条三号の「審判の請求を受けない事件について判決をした」違法があるか若しくは判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
そこで、原審記録を調査して検討するのに、本件公訴事実の要旨は、「被告人は、昭和六〇年六月一五日午後九時二五分ころ、横浜市中区翁町一丁目四番地の六先路上において、発泡スチロール、紙くずの入った段ボール箱及び廃油入り缶等が置かれているのを認めるや、これらに放火しようと決意し、右発泡スチロールに所携のライターで点火して燃え上らせ、その火を残りの段ボール箱や缶入り廃油等に燃え移らせてこれらを焼燬し、そのまま放置すれば、同所に近接して駐車中の株式会社ビック(代表取締役小林久夫)所有にかかる普通貨物自動車を焼燬するおそれのある危険な状態を生じさせ、よって、公共の危険を生じさせた」というものであるところ、検察官は原審第一回公判において、「公訴事実記載の公共の危険とは、同所に近接して駐車中の株式会社ビック所有にかかる普通貨物自動車を焼燬するおそれをその内容とする」旨を釈明し、これに対し弁護人は、「いまだ株式会社ビック所有にかかる普通貨物自動車を焼燬するおそれのある危険な状態は生じていない」、「仮に右自動車を焼燬するおそれのある危険を生じたとしても、特定の一台の自動車を焼燬する危険性を生じたのみでは建造物等以外放火罪にいう具体的公共の危険が生じたとはいえない」などの意見を陳述し、そして、原審は、公判を重ねて事実調べを行った結果、公訴事実とほぼ同旨の被告人の放火行為を認定して建造物等以外放火罪の成立を認めたが、公共の危険の発生については、訴因変更の手続を経ることなく、「同所から約一メートルに近接して駐車中の株式会社ビック(代表取締役小林久夫)所有にかかる普通貨物自動車及び付近の商店等に延焼するおそれのある危険な状態を発生させ、もって、公共の危険を生じさせた」旨認定判示したことが認められる。
ところで、刑法一一〇条所定の建造物等以外放火罪は、公共の危険が発生することを犯罪の成立要件とするいわゆる具体的危険犯であるから、その訴因には、火を放って建造物等以外の物件を焼燬したことのほか、これによって公共の危険を生ぜしめたことを摘示しなければならないが、その際ただ単に「公共の危険を生ぜしめた」旨を抽象的に記載するだけでは足りず、よって生じた公共の危険の内容を具体的に摘示すべきものと解するのが相当である。そして、公訴事実は訴因を明示して記載しなければならないとする法の趣旨が、審理の対象・範囲を明確にして被告人の利益を保護することにあることからすれば、同条の公共の危険の内容についても、訴因に明示された具体的事実と異なる事実を認定することが被告人の防禦に実質的に不利益を与えるおそれがあるときは、訴因変更の手続を要するものと解すべきである。本件において、被告人の放火行為によって生じた公共の危険の内容として、起訴状には「付近に駐車中の普通貨物自動車への延焼のおそれ」のみが記載されているところ、原審公判における検察官の釈明によって、「付近の商店等への延焼のおそれ」は公共の危険の内容をなすものではないこと、換言すれば、右特定の普通貨物自動車への延焼のおそれは例示的に記載したものではなく、それに限定する趣旨であることが明確にされ、検察官のこの態度は原審公判を通じて一貫して維持され、動揺することはなかったのである。したがって、被告人としてはこれに対応し、公共の危険の発生の有無に関する限り、前記普通貨物自動車への延焼のおそれに焦点を絞って防禦を尽せば足り、現実にもそのようにしたことが窺われる。しかるに、原審裁判所が、訴因変更の手続を経ることなく、訴因に掲げられた自動車とはその構造・材質、財産的価値等を全く異にし、これへの延焼のおそれがあるとされるときは、公共の危険の態様・程度に著しい差異を生ずべき建造物にまで危険の生じた対象を拡大し、「付近の商店等への延焼のおそれ」が生じたことをも公共の危険の内容として認定摘示するのは、被告人に不当な不意打を加え、その防禦権を行使する機会を奪うおそれが大であって、許されないものといわなければならない。それ故、原審が、前示のとおり訴因変更の手続を経ることなく訴因と異なる事実を認定したのは違法であり、刑訴法三七八条三号の「審判の請求を受けない事件について判決をした」違法があるとまではいえないとしても、その訴訟手続が法令に違反したものというべきであって、この違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであるといわなければならない。
ところで、刑法一一〇条にいう「公共の危険」とは、不特定又は多数人の生命・身体・財産に対する侵害のおそれがあると認められる状態をいうのであって、刑法一〇八条、一〇九条一項所定の物件に延焼のおそれが生じたときには、事柄の性質上当然に公共の危険の発生があるということができるが、単に特定の普通貨物自動車一台に延焼のおそれが生じたというだけでは、他に人の生命・身体・財産に危害の及ぶおそれが生じない限り、いまだ公共の危険が発生したとはいえない。したがって、検察官の主位的訴因に基づいて被告人を有罪とすることはできないといわなければならない。
所論は、この点に関し、原判決の適条を論難し、被告人において焼燬した発泡スチロール、段ボール箱等の物件は、いずれも所有者によってその所有権を放棄され道路端に集積された廃棄物であり、かかる無主物に対する放火は自己の物に対する放火に準じて刑法一一〇条二項の放火罪に問擬すべきものであるという。
思うに、放火罪は公共危険罪であって、危険にさらされる公衆の生命・身体・財産が包括的に保護法益とされるのであるが、放火の目的物に関する個人の財産権もまた二次的にせよ保護法益とされることはいうまでもない。すなわち、非現住建造物等の放火罪を定めた刑法一〇九条、建造物等以外の物に対する放火罪を定めた刑法一一〇条の各規定に徴し明らかなように、法は、放火の目的物が自己の所有にかかるときは、公共の危険を生じない限り不可罰とし、公共の危険が生じ処罰すべき場合でも、他人の所有にかかる場合に比し格段に軽い法定刑を定めるとともに、同法一一五条において、他人の財産権の侵害を伴う場合には、自己の所有物に対する放火であってもこれを重く処罰する趣旨を定めているのである。ところで、無主物に対する放火については、刑法は格別明文を設けていない。したがって、刑法一一〇条の一、二項の適用に関しては、犯人の自己所有物でない限り一律に同条一項の罪が成立し、無主物の場合も例外ではないと解する余地がないではない。しかし、無主物を客体とする放火は、他人の財産権の侵害を伴うことはないのであるから、前叙の刑法各条の立法趣旨に徴しても、自己の所有物に対する放火に準じ、同条二項の罪を構成するにとどまると解するのが無理のない解釈というべきであろう。本件において、被告人が焼燬した判示の発泡スチロール、段ボール箱等のいわゆる廃棄物(一般に財産的価値に乏しいものの、何人もこれをみだりに捨てることは許されず、法令の定めるところに従って処分する義務を負う特殊な性格を有する。)は、所有者によって不要物として処分されたという点に着目すれば、所有権が放棄されることによって無主の動産になったと観念することもできる。それ故、右物件に放火した被告人の判示所為は、自己所有物に対する放火に準じ、刑法一一〇条二項の放火罪をもって問擬するのが相当である。原判決は、被告人の放火の意図、放火行為の態様、目的物の置かれていた状況等公共の危険性についての実質的な観点から考察すべきものとし、本件所為をもって自己所有物に対する放火に準じるものとすることはできない旨を説示するが、公共の危険性の程度いかんなどを基準として同条一、二項を選択適用すべきものとする見解にはにわかに賛同し難い。元来、無主の動産は先占により直ちにその所有権を取得できるところ(民法二三九条一項)、本件事犯は、寒さに堪えかねた被告人がたき火をして暖をとろうと考え、これに用いるたき木代りの物として路傍に置かれた判示物件に目を付けたことから出発しており、被告人において労をいとうことさえなければ、これら物件を現実に握持し、他の安全な場所に運んで燃やすこともできたはずであって(ちなみに、本件行為が軽犯罪法一条九号所定の犯罪を構成するにとどまるものではない。)、客観的には被告人が現場において判示物件の所有権を取得し自己の物として焼燬したものと同視し得る状況にあったと認められるから、このような観点から考察してみても、本件所為をもって自己の物に対する放火に準じて考えることが、より具体的事案に即し妥当ということができる。原判決が、被告人の判示所為は刑法一一〇条一項に該当するとして、これを適用処断したのは、法令の解釈適用を誤ったものといわなければならない。
(寺澤 横田 小圷)